日本発の洋食器、ノリタケのはじまり
芸術の発展とその国の歴史は切っても切れない仲ですが、陶磁器やガラスもまた歴史と密接なつながりをもっていることがわかります。
安土桃山時代の陶器が頂点を迎え、豊臣秀吉の朝鮮出兵による磁器の始まりを経て、日本の焼き物が次に大きく動いたのは幕末から明治にかけてでした。開国の流れが日本の焼き物の世界を大きく動かすことになります。
輸出品を増やして、外貨収入を増やし国際社会への仲間入りを果たしたい日本。しかし、当時輸出できるものといえば絹とお茶くらいでした。
そんな中1867年、2回目のパリ万博が開催されます。このとき日本は初めて万博へ参加することになります。
幕府が各藩や商人に呼びかけたものの、応じた藩は佐賀藩と薩摩藩、そして江戸の商人だけでした。この時、和紙・漆器・陶磁器・刀剣・染色などの工芸品を中心に、薩摩藩は樟脳や薩摩焼などを、佐賀藩は有田焼を主とする磁器を出展しました。この時は珍しさもあり各国のコレクターや博物館が買い求められます。
それと同時に、日本はここで初めてヨーロッパの白色硬質磁器を知ることになります。
佐賀藩や薩摩藩から万博に参加していた商人や窯業関係者は、日本の製陶業の技術的な遅れを痛感、万博終了後にヨーロッパの製陶業を回り、技術を学びます。
ちなみに実はその技術、いまの佐賀県有田市の窯で見ることができます。
有田でもそれまでは多くが登り窯でした。しかしこの万博後、煙突型の窯が発展します。それは技術を学んだ関係者がノウハウを持ち帰ったためだといわれています。
この万博で洋食器というものに出会った日本人。
それまで形や仕上がりが不ぞろいであることをむしろ「良し」としていたのに対し、西欧は「均一化」、すなわち工業品として製造するという考え方に、この時初めて触れることになります。
ここから日本人の洋食器への取り組みがスタートするのです。
ここで登場するのが、ノリタケの前身である森村組です。
東京で舶来雑貨商をしていた森村市左衛門が、1867(明治9)年に輸出業者「森村組」を設立。
弟とニューヨークへと送り、日本の骨董や陶磁器を販売していました。彼らもまたパリ万博やヨーロッパの磁器工場を視察し、洋食器の代名詞でもある白色硬質磁器の製造を自らで行うことを決意するのです。
1904年、完成とともに日本陶器ノリタケを設立。しかし27㎝のディナー皿と呼ばれる皿の製造には困難を極め、技術者を何度もヨーロッパへ派遣、素地や釉薬の研究を重ねた10年後、洋食器と呼ぶにふさわしい白磁器を作り出すことに成功しました。
ちなみに1891年から1921年まで輸出されたノリタケの製品は根強い人気があり、その代表的な「オールドノリタケ」と呼ばれるものは、多くのコレクターを世界中に持つ代表的な製品です。
ノリタケはいまでも日本トップクラスの技術を持つ陶磁器メーカーとして現在に至るまで製造を続けています。
製品は百貨店などでも見ることができますので一度手に取ってみてください。
日本人の感性と組み合わさって生み出される洋食器シリーズは、海外のものとはまた違ったきめ細やかさやデザイン性があり、私たち日本人の感性に訴えかけるものがあると思います。
ノリタケの歴史や技術についても多くのストーリーがありますので、それについてはまた別の機会に。
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