日本磁器はじまりのお話

食器

古くから焼き物がさかんな日本。

特別な階級のものとして作られていたものもありますが、日常食器として庶民とともに発展を遂げてきました。

縄文土器に始まり、安土桃山時代に「茶道」という形で精神文化と結びついた日本の焼き物。この時代に「陶器」が頂点を迎え、「磁器」という焼き物の新しい時代が始まります。

時は豊臣秀吉の時代。朝鮮出兵の際、九州・山口地方の諸大名が現地から朝鮮人陶工たちを連れ帰ってきました。

その中の一人、李参平という人物が佐賀県の有田に移住。泉山で陶石を発見したことにより、日本でも磁器が作られるようになったのです。1616年、今から400年以上前のことです。日本の焼き物は私たち日本人の歴史とともに歩んできましたが、なんと磁器に関しては海外から人と技術を持ち込むことによって発展したのです。

現在でも有田には、陶祖李参平の子孫、14代目李参平(日本に帰化したため金ケ江姓を名乗る)さんがいらっしゃいます。

数年前に有田を訪れた際に、幸運にも14代李参平氏にお会いし、お話しを聞く機会がありました。李参平窯には途絶えていた時期があったそうです。

当代になって、陶祖でもある李参平の名を次世代に渡すため、昔ながらの有田焼の再現に取り組んでいらっしゃいます。少し青みがかったのが特徴の作品は、素朴でありながら、強く訴えかける力強さがあります。

実はいまは泉山では陶石がほとんど採れなくなっているため、ほとんどの有田焼の原料は現在の熊本県天草から取り寄せられています。泉山の陶石を使うことが許されているのは、2~3の限られた窯のみ。その中の一つが李参平窯です。

有田の歴史や陶石に関してはかなり奥深い話がありますので、陶磁器を極めたい方に向けての濃い内容をお伝えできればと思います。

陶工の祖先は他府県にもいます。鹿児島には名工沈寿官(ちんじゅかん)さんの子孫が15代目として名前を受け継ぎ、薩摩焼を手掛けていらっしゃいます。

薩摩焼は藩主たちの御用達陶磁器として作られていましたが、幕末にパリ万博に出展することになります。そしてその後、京薩摩・横浜薩摩と、京都と横浜で作られることになります。京薩摩はわずか10年ほどしか存在しなかった焼き物として、いまでも幻の京薩摩と呼ばれているほどです。

薩摩焼は陶磁器ファンの間ではSATSUMAという名前で定着しており、オークションなどでもSATSUMAの名前で取引されています。

この薩摩から京薩摩へと派生していくいきさつは、歴史的にも非常に興味深いため、また次の機会に触れさせていただきます。

はるか昔に強制的に連れてこられ、祖国の地を踏むことなく多くの人が永住を余儀なくされた陶工たち。

彼らの望郷の念を小説にした、司馬遼太郎の「故郷忘れがたく候」は、当時の彼らの思いを垣間見ることができる作品です。もしご興味があればぜひ読んでみてください。

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